自己満足ブログ。

メンタルへらってる女です

好き、って言われる

『愛している』とか『好き』と、言葉で言われることが苦手だ。普通の人なら言われて嬉しいはずなのに、何故だろう。人から大事にしてもらえるほど自分に価値がないと思いこんでしまっている、というのも理由にある。しかしそれ以上に、『言葉で好きと言うのは簡単だけども、本当に好きかどうかなんて分からない』という疑心が勝ることが主な理由としてあげられる。

『好き』と言う事によって、彼にどんなメリットがある?女をロマンチックな気分に酔わせてそのまま性行為に及ぶラッキーチャンスが出てくる?とりあえず『好き』『愛してるよ』って言っておけば女は満足するだろう、と馬鹿にされている?私は馬鹿にされ性欲処理をする玩具として扱われている?

そういった疑念ばかりがぐるぐると頭を回り、素直に受け止めることが出来ないのだ。

真実の愛なんてものは果たして存在するのだろうか……。近頃ずっとそんなことを考えてしまう。愛されることが恐怖。彼との愛をずっと信じていたのに、後に偽物の愛だったことが発覚。そんなことになったら笑えない事態だ。そんなクスリともしないブラックジョークのような惨劇に陥る前に、私は保険をかけてしまう。保険とは、愛なんてものを信じるのはやめる、という考え方のことだ。石橋を叩く前から『この橋は壊れるに違いない』と恐れ、渡ることを放棄し、水面をぼうっと見つめることしかできない。私はよく、周りの人が渡っていくのを見て『どうせ壊れるのによく渡れるものだ』と嘲笑する。だが一番滑稽なのは、何も行動を起こさないのに他人を馬鹿にすることでしか面子を保てない自分なのだ。よく分かっている。分かっているけど行動にうつせない。

『我思う。故に我あり』という言葉で有名な哲学者にデカルトという人がいる。彼もまた全てのことを徹底的に疑っていた人間だった。目の前にあるリンゴは存在しているか?そもそも、自分のいるこの世界は本当に存在しているのか?そうしてたどり着いたのが『自分の存在だけは確か』という結論だった。私個人の感想としては孤独な考えだ、そう感じた。自分以外のものを全て信用しない、という私の考え方と酷似している。この人は幸せな人生を送れなかったのではないかと勝手に想像してしまう。

人を信じること、愛されること、愛すること。全部幸せへの近道であることは確かだ。でもその近道は同時に危険な道だ。自分にはとてもじゃないけど渡ることはできない。『愛してるよ』と幸せが手招きしていても『それは私を罠にはめるための戯言だろう』と憤慨してしまう。こんな天の邪鬼な性格では、幸せになれるはずもない。愛されたいけど、愛していると言って欲しくない、偽物の愛なんていらない。真実の愛だけがほしい!!真実の愛なんて信じてないくせにそう渇望してしまう。自分はなんて浅ましい人間なんだ。オチは特にないです。